谷山浩子さんの歌にいつまでも甘えていたい雨の休日

谷山浩子さんの歌声はいつでも優しくて聞いていて心地よいのだが、特にがんばって働いて疲れたあとの休みの日、雨の日なんかにおもいっきり甘えて聞きたい曲がいくつかある。
まず思い浮かぶのは「しまうま」収録「ねこ曜日」
これを聞きながら冬は暖房、夏はクーラーの効いた部屋でなにもせず一日、ベッドの上で、ごろにゃんごろにゃんしていたい。
ただしクーラーの効きすぎにはご用心。
風量「弱」もしくは「除湿」モードにすると良い。
次は「ボクハ・キミガ・スキ」収録の「心だけそばにいる~HERE IN MY HEART~」
「くじけそうな時 わたしを思い出してね」
これを聞くたびに癒されて、思わずうっとりしてしまう。
こんな女性が現実にいるかのどうか、あえて問わない。
曲というのはせいぜい3分か4分だが、その短い時間のあいだだけでも癒されていようではないか。
いやCDだから何度でも聞けるし。
男でも女でも好きな相手に対してこのように優しくしたくて、たまらない時がある。
ただその気持ちが永遠に続くかどうかは。。。
さらに、とびきりかわいい女性は「宇宙の子供」収録の「あそびにいこうよ!」の主人公である。
「なんて、ウソだよ」の一言で完全にまいりました。
「元気だして」
はい、元気出します。
明日からまた仕事がんばります。
となるのである。

 

谷山浩子の変な歌詞が大好き

谷山浩子さんを知らない人に、「どういう感じの曲なの?」と聞かれてもなかなか答えづらい理由は、単純に言えばバラエティーに富んでいるからだ。
「しっぽのきもち」や「恋するニワトリ」のようなシンプルでかわいい曲から、「王国」のような味わい深い大人の曲まで実に様々である。
「谷山浩子」がお好きなら、たぶんこれも、と言って自分が好きな別のアーティストの曲を薦めても、他の浩子さんファンに受け入れられない可能性があると思う。
僕たちファンは、浩子さんの歌が大好きだという点において一致するのだが、どこが好きなのかに関してはひとりひとり自由であっていい。
谷山浩子作品は本当にカラフルで、様々な側面を持っているので、ファンがそれぞれの位置から見ている角度によって違って見えるだろうと思うからだ。
僕は特に浩子さんの変わっている歌詞、はっきり言えば変な歌詞の曲が好きだ。
その変な歌詞を、インパクトのあるリズムとメロディーに乗せ、あの美しいくて優しい声で、さわやかに歌ってくれるので背筋がぞくぞくっとする。
例えば「花を飾って(KAMAKURA)」という曲が好きだが、「わたし会いたい、あなたに会いたい」と始めておきながら、お店の看板、電信柱、ゴミ捨て場の猫、ビールのあきびんが「あなたよ」と言って、最後は「思い出せな

い あなたが誰だか」と、一体今のはなんだったのか?と、鎌倉の町に置いてけぼりにされた気分になる。
「片恋の歌」では、「壁よわたしを抱きしめて」と。「壁は抱きしめへんやろー」と大阪の芸人であれば突っ込むところである。
そしてこの曲の2番の歌詞では「茶碗に想いを語りかける」「茶碗が時々あいづちをうつ」と、ここまでくると精神的にちょっとどうなのか?。。。
「かおのえき」もかなり衝撃的である。「耳から耳へと橋をかけ 毛穴に種まき二毛作」
「かおのえき」はあの中近東のような、なんともいえぬメロディーがまた異様な雰囲気をかもしだしている。
「まもるくん」は一体この世の生物なのか、お化けなのか、それとも妖怪なのか皆目見当もつかない。
「人がたくさんいる」では「顔がたくさんある」「誰もが空気を吸って吐き出す」「手と足がはえている」と、どう考えても当たり前のことを繰り返し歌っているのだが、それが小気味よくかっこいいリズムに乗せられて、隠された世

界の謎を暴いているかのように聞こえるから不思議だ。
この超現実感が好きだ。
確かにシュルレアリスム絵画に通じるものはある。しかし、谷山浩子さんの世界をシュルレアリスムでくくってしまうのはもったいない気がするな。
芸術というのは作者が自由に発信でき、そして受け取り手が自由に何かを感じ取ることができるべきものであって、なんとかイズムにまとめ得るものではない気がする。
事実サルバドール・ダリ自身が「私はダリスト(ダリ主義者)であってそれ以外の何者でもない」と言っている。
キャンバスに様々な色の長方形をひたすら置いていったマーク・ロスコは、解釈されることを一切拒絶していた。
作品と受け取り手の間に、一切なにも入れるなと言った。
ひとつの作品から人が感じ取ることができるものは無限であり、それは人によって全部違って良いというのに、「この作品はこういう意味だ」と誰かが規定したとたん、受け手が感受できるものの範囲がせばまってしまうおそれ

があるからだと思う。
谷山浩子さんには、既存のなんとか主義というような枠に収まりきらない表現力の豊かさがある。
浩子さんの作品は浩子さんの脳から時々ポップコーンのようにはじけて自由に飛び出してくるもので、次はどれほどみょうちくりんなものが出てくるかと思うとわくわくする。
僕は谷山浩子さんの変な曲が大好きです。
「僕は僕の好きなものが ぜんぶ好きだ」(道草をくったジャック)

 

谷山浩子と科学についての考察

今回は谷山浩子と科学についての雑感を書く。
浩子さんの「空飛ぶ日曜日」のなかにFLYINGという曲があるが、その中に「電子顕微鏡」という言葉がさりげなく配置されている。
いかにも理科好き人間の好奇心を掻き立てる単語である。
だいたい、歌の歌詞に電子顕微鏡を持ち出してリズム、メロディーともにぴたりと決めてみせるなど、谷山浩子をおいて他の作曲家にはできない芸当だと思う。
当時浩子さんはラジオや著作のなかで眼鏡をかけた天才科学者少年が大好きと語っていた。
実は僕もそれを聞いて、身の程知らずにも、よし科学者になろうと思った一人です。
考えてみれば谷山浩子ファンのなかには今、大学や独法、企業の開発部などで科学者をやっている人たちが少なからずいる気がする。
浩子さんの曲には、科学的知識に裏づけされた空想、いわゆるSFに通じるものがある。
例えば「海の時間」は、きみとぼくのラブソングのようにはじまりつつ、思いは太古の海洋生物から進化論、生命の起源にまで遡る壮大さである。
また浩子さんの想像力には限界がない。
「お昼寝宮・お散歩宮」には「石に恋したかすかな記憶」という言葉が出てくるが、「きれいな石の恋人」に至ってはついに恋人が石でできている。
恋愛というものを考えるうちに生命の起源まで思いいたることはあるが、さらに遡ると最終的には無機物にまで行き着くのかも知れない。
人体を構成する炭素、水素、酸素、その他はすべて地球の天然鉱物に含まれているものと同じ、地球の一部だからだ。
「電波塔の少年」では自分が電波になって夜の空を走る。
「見える限りの家やビルの窓」にいる「数えきれないきみ」に言葉と歌を届ける。
秒速30万キロメートルで走る電磁波と空間伝播いうものにたいするなんという的確な理解。
「パラソル天動説」という曲もあったな。
「パラソル天動説」では詳しい説明が省略されているので、逆にどのような新しい宇宙論なのか自由に想像をめぐらせてみる楽しさがある。
座標系の原点を自分にとれば、天動説も地動説も関係なくなるという、相対性理論の拡張なのか?
科学者にとって大事なことは、実は数式の導出などではなく、研究対象がどうなっているのか、背後に隠されたメカニズムを想像する力だと思う。
人類が積み上げてきた原理原則は間違いではないが、自分の境界条件を間違えるとまったく的外れな積分解に行き着いてしまうからだ。
しかし、これらを理屈っぽくせず、さらりと美しい歌声にのせて、誰もが楽しめる気持ちよい音楽に昇華させてしまう力がすばらしい。
浩子さんの小説最新作の「Amazonで変なもの売ってる」のなかに「最も身近な宇宙は、たとえば、自宅です」という台詞がでてくる。
自分の場所で僕たちは宇宙や時間の流れについて自由に考えることができるのだ。
無限に広がる知的好奇心と日常的な生活空間を宇宙の謎や生命の起源につなげる想像力、そして物事に対する深い洞察力が谷山浩子ワールドの魅力のひとつだと思う。

 

谷山浩子のオールナイトニッポンていうか

いまRaditalでやっているオールナイトニッポンモバイルではなく、1982年から1986年に放送していた「谷山浩子のオールナイトニッポン」について書く。
谷山浩子さんのファンは年齢層が非常に広いので、オールナイトニッポンを知らない世代の人も多い。
若い世代の人たちに昔の話をすると嫌がられるかもしれない。
自分も中学生や高校生のころ、少し前の音楽とかに妙な憧れをいだくとともに、リアルタイムで経験できなかったことで、少し上の世代にジェラシーのようなものを感じていた。
しかし、僕が谷山浩子さんの音楽を知ったきっかけはオールナイトだったし、毎週浩子さんの声にとても癒されていたので、やはり書きたい。
毎週木曜日。時間帯は深夜というか、明けがたの午前3時から5時。
当時のラジオでの浩子さんはアニメ声優のような声で、歌う時の声とはまったく違っていた。
というより、ラジオの浩子さんは、歌手の浩子さんとまったく別人格だった。
後になってご本人が「あれは完全にキャラを作っていたから」とおっしゃっている。
しかし無理やりキャラを作っていたような不自然な感じではまったくなかったな。
森谷ディレクターがよく「どうせ誰も聞いてないんだから」と言っていた。
もちろんそんなことはなく、はがきもたくさん来ていたし、かなりの人間がその時間帯に聞いていたのだと思う。
第一部(午前1時から3時の時間帯)のビートたけしに比べれば少なかったとは思うが。
僕はたけしには興味がなく、3時にラジオのスイッチを入れていた。
谷山浩子のオールナイトニッポンを聞いていることで、なにかある種のグループ、クラブのようなものに所属しているような感覚を覚えていた。
こんな時間に、こんな放送を聞いている人間はたくさんはいない。
したがって毎週この放送を聞いているリスナーたちは仲間だ、というような感覚があった。
今でも、まことに勝手な思い込みかも知れないが、谷山浩子ファンはみんないい人なんじゃないかと思う。
谷山浩子のオールナイトニッポンは、ありえんような放送だった。
びっくりしたのは六本木で忘年会をやっている音をそのまま流していて、途中でなにも話すことがなくなり、森谷さんが「それじゃあ曲行きましょう」といってクラシック音楽を15分くらい流し続けたことがあった。
オールナイターズライブと称して、素人が楽器の練習をする様子を2時間流し続けたり。
しかしそれを聞くのが楽しかったな。
なんでだろう。
「深夜とはいえ、ラジオでこんな事して大丈夫なんだろうか?」というスリルが面白かったのだと思う。
実際森谷さんが上の人に怒られたと言っていたことがあった。
今ではその森谷和郎氏はニッポン放送の取締役編成局長だそうだ。
浩子さんに、あんなにめちゃくちゃな放送をやらせておいて、上からも怒られたのにずいぶん出世したものだ。
当時僕は大学受験生でストレスがあった。
ちゃんと大学に合格して、卒業していい会社に就職しなけりゃならないというプレッシャーがあった。
そこで、浩子さんの深夜放送が教えてくれたことは、「意外にいい加減でもいいんだ」ということだった。
浩子さんも森谷さんも、当時の高校生からみたらものすごく大人だった。
その大人の人たちが、公共の電波を使ってこれほどまでにテキトーなことをしても許されてしまうんだという意外性が、僕たちに奇妙な安心感を与えてくれていたのである。
自分のやりたいことをればいいんだという確信を得られた気がする。
今では僕も会社員25年やっていい大人になってる。
このブログを高校生とか大学生が読むかどうかわからないが、もしたまたま読んでいる人がいたなら、そして将来のことで悩んでいる人がいたなら、声を大にしていいたい。
大人って結構適当でOKだから。

 

9.11

今日は9月11日でした。2001年に同時多発テロが起きた日です。
今でもあの時の衝撃をはっきり思い出します。
あの日をさかいに、世界は変わってしまったような気がします。
ニューヨークでは確かに何の罪もない人たちが5000人殺されました。
しかし、その後アメリカはイラクで何の罪もない民間人を3万人殺しています。
アメリカ人もね、兵士はイラクやアフガニスタンでいっぱい死んでいるんですよ。
一番危険な前線に送られるのは、だいたい低所得層の出身や失業者でやむなく軍隊に入った人が多い。
僕の知り合いにも息子を二人ともイラクで亡くした人がいます。
アメリカは今でも厳しい階層社会です。
谷山浩子さんは2002年に「翼」というアルバムを出しました。
ジャケットには中央アジア風の女の子が大きく写っていて、かなり目立ちます。
その女の子のきれいな目が力強く、まっすぐにこちらを向いていて、何か強いメッセージを感じます。
「学びの雨」を聞いていきなり泣きました。
「涙といさかいが織りなす人の歴史」とは、まさに核心的な一言です。
しかし浩子さんの歌は僕たち希望を、生きていく勇気を与えてくれます。
「何もない荒れ地にも 花は咲くだろう 一粒の種がここにある限り」
どんなに困難な状況でも前向きな言葉を絶やさない浩子さんは、やっぱりすごい人だと思います。

 

体育、ほんとやだった

谷山浩子さんは、昔からあちこちで子供のころから体育がすごく苦手だったということを公言しています。
僕もねー、体育ものすごく苦手でした。
なにしろ体が思うように動かせない。特に球技は全部からっきしだめだったなー。
ドッジボールとか、最悪。
ボールが飛んでくると、体が動く前に頭でどうすればいいのか考えこんでパニック状態になってしまう。
運動会のときの団技とかも、全く、ぜんぜんできなかった。
体の動きが人より2拍も3拍も遅れていくので、たくさんの父兄が見ている前で一人だけ目立ってかっこ悪い結果になるわけです。
小学校ではよく先生に怒られていたな。
やる気あんのかって。
すまんが怒られても、自分ではどうしようもないのだよ。
いや、やる気はあるんだけど、なにしろ手足がついてこないので。
それがすごいコンプレックスになっていったのです。
小学校、中学校、高校、大学と、体育の授業はいつもいつも憂鬱でしかたがなかったなー。
体育の授業以外のときには、とにかく運動音痴ってことを絶対人に知られたくないと思っていた。
恥ずかしいし、なんとなく、スポーツができないと異性にもてないという意識もあったので、なおさら。
ところが!!
ところが!!
谷山浩子さんという方を知ってほぼすぐ「私はあらゆる運動が苦手です。」とおっしゃっているのを聞いて目が覚めるような衝撃を受けた。
そんなこと、マイクに向かって言っちゃっていいものなのか?
浩子さんは「運動会がいやでいやで、運動会の前日に雨乞いしてました」とまでおっしゃるじゃなですか!
仲間だ!
と思いました。
そういうことを人前で公言してくれる人がいることに感動を覚えると同時に、自分が小学生のころから悩んできたことがすごくちっぽけなことと思えるようになった。
浩子さんのお話を聞いて、肩の荷が下りて楽になったような感覚でした。
普通だったらアーチストってトークや雑誌のインタビューではかっこつけるものじゃないかな。
浩子さんは絶対に自分を美化しない。
そこがかっこいいです。
「悪魔祓いの浩子さん」ていう本がありました。
何で「悪魔祓い」なんだろうって、ずっと考えました。
これは僕の勝手な解釈ですが、たぶん「悪魔祓い」というのは、コンプレックスのように心に重くのしかかっている悩みを取り払って、魂を開放してくれる人のことなんじゃないでしょうか?
僕にとっては浩子さんは、心の檻を取り払ってくれた恩人です。

 

谷山浩子さんについてまた書くよっ

谷山浩子さんの大きな魅力は、あの声ですよね。
あの、人を安心させてくれる優しい声を聞いていると本当に心が和みます。
ラジオやコンサートのトークでの声はしゃべり方が親しみやすくて、しゃべる内容がまた、かわいいので好きです。
聞いている人に対して優しさをプレゼントしてくれる感じです。
でも、ときたま悪戯っぽい声で皮肉を言ったりして、そこがまたスパイスが効いていいのです。
歌うときの声は曲によって大きく違うのだけれど、やっぱりどれを聞いてもプロ中のプロだなと思う。
僕が最初におーーと思ったのは、「ひまわり」の「だけど風が空で歌ってーるだーけ」の「歌ってー」のところ。本当に風が歌っているように聞こえるのですよ。
単純なところでごめん。いやいやほんの一例です。
浩子さんの歌唱表現力が冴え渡る場面は他にも数え切れないほどありますよ。
なんでもっと世の中で売れないんだろう。
ご本人が「ニッチ産業のようなものが好きで」と言っているのは、負け惜しみでもなんでもなくて、本当だと思う。
時代や流行に迎合せず、自分が本当にやりたい音楽をやりたいという気持ちなんじゃないかな。
そこがかっこいいのです。
実は僕もそんな風に生きられたらいいなと思っている。ぜんぜんできてないけどね。
そういう生き方、つらいこともあるよね。
浩子さんの歌に何度も何度も勇気をもらいました。
「凍える丘にひとり立つ 孤独な樹のように」(真夜中の太陽)
「空もひとりだよ生まれたときから 誰にも守られずに それでも優しい」(静かに)
美しい詩ときれいな歌声の奥に、何かものすごく熱いものの存在を感じます。
そこが浩子さんの強さなんだろうな。
偉い!
やっぱ、世間に売れなくてもいいや。
われわれファンにとっては、メジャーな歌謡曲を歌う浩子さんより、こうして本当にやりたいことを楽しそうにやっている浩子さんでいてくれる方がうれしいのさ。
経済的には楽じゃないかもしんないけどね。