谷山浩子の変な歌詞が大好き

谷山浩子さんを知らない人に、「どういう感じの曲なの?」と聞かれてもなかなか答えづらい理由は、単純に言えばバラエティーに富んでいるからだ。
「しっぽのきもち」や「恋するニワトリ」のようなシンプルでかわいい曲から、「王国」のような味わい深い大人の曲まで実に様々である。
「谷山浩子」がお好きなら、たぶんこれも、と言って自分が好きな別のアーティストの曲を薦めても、他の浩子さんファンに受け入れられない可能性があると思う。
僕たちファンは、浩子さんの歌が大好きだという点において一致するのだが、どこが好きなのかに関してはひとりひとり自由であっていい。
谷山浩子作品は本当にカラフルで、様々な側面を持っているので、ファンがそれぞれの位置から見ている角度によって違って見えるだろうと思うからだ。
僕は特に浩子さんの変わっている歌詞、はっきり言えば変な歌詞の曲が好きだ。
その変な歌詞を、インパクトのあるリズムとメロディーに乗せ、あの美しいくて優しい声で、さわやかに歌ってくれるので背筋がぞくぞくっとする。
例えば「花を飾って(KAMAKURA)」という曲が好きだが、「わたし会いたい、あなたに会いたい」と始めておきながら、お店の看板、電信柱、ゴミ捨て場の猫、ビールのあきびんが「あなたよ」と言って、最後は「思い出せな

い あなたが誰だか」と、一体今のはなんだったのか?と、鎌倉の町に置いてけぼりにされた気分になる。
「片恋の歌」では、「壁よわたしを抱きしめて」と。「壁は抱きしめへんやろー」と大阪の芸人であれば突っ込むところである。
そしてこの曲の2番の歌詞では「茶碗に想いを語りかける」「茶碗が時々あいづちをうつ」と、ここまでくると精神的にちょっとどうなのか?。。。
「かおのえき」もかなり衝撃的である。「耳から耳へと橋をかけ 毛穴に種まき二毛作」
「かおのえき」はあの中近東のような、なんともいえぬメロディーがまた異様な雰囲気をかもしだしている。
「まもるくん」は一体この世の生物なのか、お化けなのか、それとも妖怪なのか皆目見当もつかない。
「人がたくさんいる」では「顔がたくさんある」「誰もが空気を吸って吐き出す」「手と足がはえている」と、どう考えても当たり前のことを繰り返し歌っているのだが、それが小気味よくかっこいいリズムに乗せられて、隠された世

界の謎を暴いているかのように聞こえるから不思議だ。
この超現実感が好きだ。
確かにシュルレアリスム絵画に通じるものはある。しかし、谷山浩子さんの世界をシュルレアリスムでくくってしまうのはもったいない気がするな。
芸術というのは作者が自由に発信でき、そして受け取り手が自由に何かを感じ取ることができるべきものであって、なんとかイズムにまとめ得るものではない気がする。
事実サルバドール・ダリ自身が「私はダリスト(ダリ主義者)であってそれ以外の何者でもない」と言っている。
キャンバスに様々な色の長方形をひたすら置いていったマーク・ロスコは、解釈されることを一切拒絶していた。
作品と受け取り手の間に、一切なにも入れるなと言った。
ひとつの作品から人が感じ取ることができるものは無限であり、それは人によって全部違って良いというのに、「この作品はこういう意味だ」と誰かが規定したとたん、受け手が感受できるものの範囲がせばまってしまうおそれ

があるからだと思う。
谷山浩子さんには、既存のなんとか主義というような枠に収まりきらない表現力の豊かさがある。
浩子さんの作品は浩子さんの脳から時々ポップコーンのようにはじけて自由に飛び出してくるもので、次はどれほどみょうちくりんなものが出てくるかと思うとわくわくする。
僕は谷山浩子さんの変な曲が大好きです。
「僕は僕の好きなものが ぜんぶ好きだ」(道草をくったジャック)