谷山浩子さんの「宇宙の子供」についてもうちょっと書いてみた
前回谷山浩子さんの「宇宙の子供」について書いたが、まだまだ書き足りないと思われたので書き足すことにする。
「宇宙の子供」に限らず、谷山浩子さんのアルバムはどれも聞き方次第でどんどん奥が深くなっていく。
何度聞いても飽きない理由はそれだ。
心の奥の暗い闇にいくらでも進んでいけそうで、アリアドネの糸でも握っていなければ帰って来れなくなる危険性さえ感じる。
しかし自分が疲れているとき、リラックスして優しい歌声にいやされたいと思えば「ここにいるよ」や「あそびにいこうよ!」をそのように聞くこともできる。
また心に余裕があれば、謎に包まれた不可解な詩の意味を少しづつ読み解くこともまた楽しく、そこであらためてリズムやメロディーの面白さに気づかされることもある。
1曲目「よその子」は、ずしりと心に響く。
「母に憧れ、母を憎んだ」とは、「わたしの子供」とはどういうことなのだろうか?
ただごとではなさそうである。
同じアルバムに収められた美しい曲、「わたしは淋しい水でできてる」にヒントがあるように思う。
浩子さんは2歳のころ、千葉県のお母様のご実家に預けられたという。
夏の九十九里での海水浴はまぶしく、楽しいものだが、小さい子供が母親に置いていかれたとなれば心象風景はまったく異なる。
誰でも小さな子供のときに感じた淋しさやあせりは、大人になっても決して消えることはなく心の奥に隠れているものである。
「暮れゆく公園 誰もいない道 記憶の深みに 眠るブランコ」というような歌詞を読むと背筋がゾクッとする。
谷山浩子さんのすごいところは、遠い昔に感じた気持ちやそのときの状況を、引き出しを開けるように瞬時にありありと再現できるところだと思う。
浩子さんはご自分の心の奥にしまわれた記憶や感情をひとつひとつ丁寧に取り出して吟味し、創作活動に役立てるタイプの芸術家なのだと思う。
これほど自由に自分の心を読み出せる人はなかなかいまい。
いやそのような心の奥への探検は、普通の人にとってはとても危険な行為ですらある。
なぜならば、引き出しが閉まらなくなったら正気でいられなくおそれがあるからである。
「よその子」は浩子さん自身の一部であろう。
それを聞く僕たちは、自分の中に遠い昔から存在し続ける子供の心、あるいはけして消えない過去の記憶の一部、特に淋しさや不安感を掘り起こされる怖さを感じる。
一言で言えば、共感する。
しかし「よその子」本人は熱い炎に焦がされながらも「全ての家の 全ての人の幸せを 祈れるくらいに 強い心」を持ちたいという。
この詩に浩子さんのすさまじい強さを感じる。
そう、自分自身が強くなければ人の幸せを祈ることなどできないのだ。
谷山浩子さんの音楽に励まされた、勇気をもらった、元気をもらった、あるいは救われた人は多いはずである。
自分もその一人だ。
しかも浩子さんがすごいのは肩肘はって力むことなく、あくまでもさらりと、かわいらしく、脱力状態でそれをやってのけるところである。
自分自身の心に潜む淋しさや悔しさを見つめなおし、しかし他人をおそれたり敵視するのではなく、むしろ人を救う境地に至るサブリメーションこそ「よその子」の魅力だと思う。
前回のブログでブックレットの浩子さんの写真がお釈迦様のようだと書いたが、いま見直してみると、やや微笑みをたたえ、しかし持てる限りの見えない力を尽して一人でも多くの衆生を救わんとされる観音菩薩のようでもある。